美と日常

スケジュールが立て込み、非日常な日々が続く。疲労感、特に時間の早さが日常的数値を超えている。


白州正子の『風花抄』に「美は技術を離れては存在しない。しかし、技巧だけでも生まれやしない。普段の暮らしぶりや人柄までもが正直に映し出されるのが、美の世界なのである」という言葉があるそうだ。
音楽にしても文学にしても、その人と離れたところでは成立しないのではないだろうか。日頃どんなふうに生きているのか、知らず知らずに反映してしまう。私生活と作品は無関係と言う人もいるが、私はその人が作り出せば、何らかの形でその人が反映してしまうと思っている。そこで怠惰な私は「日常をおろそかにするな」としばしば自戒することになるのである。日常を侮ってはいけない。

 
で、先日お話を聞いた、美術家の島袋道浩さんを思い出した。世界で活躍している美術家である。彼は明石育ち。名産である蛸がいる環境が好きであり、その漁に使われる蛸壺を漁師さんから取材をして制作。それをイタリヤで行なわれた世界展覧会に展示した。その一貫として、イタリヤの海で蛸漁をする。そしてイタリヤの漁師と一緒に釣った映像を流す。またフランスの目抜き通りの交差点に、150メートルのロープを張り、ハンモックの中で寝るという試み。そのために市に申請し、許可を取り、交通を止めてもらい、たくさんの学芸員の協力を得て、実現にいたる。世界各地で人と輪ゴムくぐりをする・・・。というような一見くだらない、意味のなさそうなことを、やる人なのだ。
どこが美術家?(彼はアーティストではなく美術家と言う)と聞かれ、「日常のなかで、ハッとした発見、驚き、美味しいものを食べたうれしさ、そういうことって“美しい”じゃないですか」と言う。それが美術だと。いまだよくわかっていない私だが、話を聞いていくうちに、彼のやろうとしていること、彼の「美しい」と思うものを多少は感じることができた。あくまで私なりに、であるが。


美しさは日常の中にある。人と人の間にある。その美しさとはきっと「人々の幸せ」につながるっている。…なんだかそういうふうに伝わってきた。穏やかで、じつにうれしそうに話す彼だったが、本質を見抜く視点は充分に鋭い。

「美しさとは何か」ということはそう簡単に言えるものではないが、近ごろ「あいつのやること美しくないよなぁ」と言いたくなるような御仁が目に付く。どうしたものか。