文化の継続

先日、自分がやるスペースに友人がお二人で来てくれた。お連れの方は日本芸能の舞台に立っている方。話術も達者で、楽しく着物の薀蓄などを聞かせていただいた。はて、と立ち止まる。芸能をされている方とは現実に目の前で接しているのに、その芸能に対しては現実がないのだ。まったくもって無知なのであり、想像力をもたない。常磐津、義太夫、清元、新内、長唄、小唄、都々逸・・・それらしいものの名前は何とか挙がるが。ジャズ、ブルース、デキシー、ゴスペル、ロックンロール・・・なんかのほうが馴染みがある。


日本のものより、外国のものの方が馴染みがあるというのは、考えてみればおかしなことだ。文字も同じことが言える。だいたい戦前の文語体さえ読めない。明治の文豪のものから、江戸、中世ものになると、古語辞典がなければ読めない(あっても読めないが…)。「古典というのは古語の勉強をしなければ読めないもの」と、あまり抵抗なく認識してきたが、考えてみればおかしなことだった。外国籍のCさんが不思議がる。「辞書がなくてもシェークスピアは読めるのに、日本古典は古語辞典がないと読めないですね」。


侵略された経験もないのに、同じ国のなかで言語が通じなくなる、という現象は特殊なことだったのだ。こじつけるわけではないが、そんなことを思っていたところ『文化=政治』(月曜社)というタイトルが気になり、購入してみた。