辺見庸の言語

新聞の切り抜きを整理しなきゃ・・

久しぶりに辺見庸氏が書いていた。彼の言葉の撰びが私はとても好きなのだ。今回も、「滴るほどの緑をたたえていた窓外の公孫樹(いちょう)がいつの間にか眩しく黄化し、はらほろと旋回しながら散り落ちるまで病院にいた」とはじまる。うつくしい。
これでもかというほど、重大な病いの襲撃に会い、その時々の毅然とした言葉にこころが痛かった。今回の文章にはなんだかホッとするものを感じる。険しい山を越え、ごつごつとしてはいるがなだらかな道を歩んでおられるような・・・

「(病い)の恐怖とは健康の側から病気の側に向けた幻想や妄想のようなものであり、一般にその反対はありえない。娑婆では悲観と楽観に気分が揺さぶられ、胸の奥で事態の暗転におびえているより、いっそ病気と断じられて入院してしまったほうが毎日の座りがよろしい」と病院の日常のほうが妙に腹をくくっていられるという心境に至る。だが多少の自暴も含め「ふん、死ぬまでは生きるさ・・・」とひとりごちすること度々。そんな折りに聞いた看護師さんの言葉にはっとし、またぞろ死生観が揺らぐ辺見氏だった。「なかなか死ねない患者さんだっているのよ。それはそれでつらいわよ」。

「死ぬまで生きると言えども、死ねないのもつらい」。その先にくるべき結語をもとめ彼は彷徨う。そして「死ねないのもつらい、しかし、それでも未決定の“いま”こそがクライマックスのように心え、あえて晴れがましく生きる」、という心のあり方に行き着く。「死という終着点にのみ固定していた視線を“いま”に移す。心の湖の波風をしずめて“永遠のいま”を一瞬一瞬、惜しみながら生きる…」。彼がいま到達した結語である。

毎回思わされることだが、彼の使う言葉には確かな力がある。

たんば色の覚書 私たちの日常

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もの食う人びと (角川文庫)

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