伊勢好きの芭蕉

unaスペースでの古典を読む会。今年は『芭蕉七部集』。連歌である。が、私たちのレベルでは読むだけで精一杯。なかなか句を味わうところまでいかない。そんなことで、この頃は「初夏の句」など発句を集めたものを読んでいる。

今回は「釈教」。説法ではなく、宗教に関するものを詠った句。説法ではないばかりでなく、抑圧的で、不自由になりかねない宗教の脱構築だと講師の解説。宗教研究者でもあるCさんらしい視点だ。
最初は芭蕉の句から

神垣や おもひもかけず 涅槃像
芭蕉伊勢神宮を訪れたときの句(伊勢には6度も訪れているそうだ)。伊勢神宮という神を祭っているところで、思いもかけない釈迦の涅槃像を見た。涅槃会にかける像だろう。涅槃会は2月15日の釈迦入滅の日の行事。神仏習合という極めて日本的な情景が詠われている。

Cさんは「思いもかけず」という言葉に注目。「思い」というものに対して「かける」という表現は日本的でおもしろい。しかし、かけようと思ってもかけきれるものではなく、物事は、そのかけないところから訪れてくる。その偶然がもたらす可能性。現代でも重要視されている“予測不可能性と創造”の領域である。

さて、次にはその釈迦の入滅の日のころに死にたいと詠った西行忌にあてた句。実際に2月16日に没しているという西行もすごい気がするが。ちょうど没500年目にあたる年だったようだ。芭蕉は常に西行が念頭にあったと言われている。

連翹や その望の日と しほれけり   胡及

西行の詠んだ有名な句  「ねがはくば 花の下にて春死なん そのきさらぎの もち月の頃   西行」を受けて、早春に咲くれんぎょうの花も、その望月の日と知って、しおれていると詠っている。釈迦が入滅した日に、沙羅双樹の花がしおれたという言い伝えを受けて詠まれた。

俳句とか短歌は短いだけに、その一言に、物語が織り込まれている。説明を受けないと、なんのことだかわからない。けれど、そのことを知ると、急に味わい深い。そんな調子で阿羅野巻の八を読んだ。 宗教に触れた題材だけに、逆に軽く読めた気がする。