普遍と無常

C講師と「古典を読む」ことを始めて何年も経った。
去年は論語だったが、今年は『芭蕉七部集』である。連歌の世界、江戸の文化の世界に触れていこうというもの。だが連歌といっても創るなどは程遠い世界。まず読むことすらできない。そのうえ歌は解釈がむずかしい。したがって、まとめができていないといういい訳である。

ときはちょうど春。で、今回は「春の日」を読んだ。発句ばかりを集めたもの。発句とはつまり俳句であり、一句だけで味わう。

鯉の音 水ほの闇く 梅白し   羽傘

ほの暗い池のあたり。視覚より音が先に飛び込んでくる。そして臭覚を刺激するほのかな香り。暗くなったあたりを見回せば、梅の花の白さが浮き出ていた。そんな情景が浮かんでくる。聴覚臭覚視覚と五感に訴える歌だ。

朝日二分 柳の動く 匂ひかな   荷号

朝日が二分ほどさしているころ。春のうぶな緑の柳が揺れて、その色彩が目に染みてくる。そんな情景だろうか。柳は春なのだそうだ。そう言えば先日、銀座の柳が芽吹いて、枝に青みが加わっていた。あの柔らかな緑…。春は柳でもあるのだった。匂いとは色彩を指すらしい。

で、ここには有名は芭蕉の句が入っている。

古池や 蛙飛びこむ 水のをと  芭蕉

これもまさに春の歌。おたまじゃくしからカエルに孵化したばかりの蛙が、池に飛び込む。音とともに、静かだった湖面に波紋ができる。そんな情景。古池とはずっと変わらずにあるもの。動かぬもの。そこに変わるものとしての春の蛙が飛び込む。蛙は無常の生命を生きている。池に飛び込むことで、音が生まれ、池に波紋を描く。しかし、しばらく後、音も消え、古池はもとの静かな湖面に戻る。そんな静と動の対比、普遍なものと移りゆくものとの対比。
深い解釈はいろいろあるだろうが、ふとそんなことを思った。

俳句をゆったりと味わうことは、せわしないこころを一時でも静かな湖面にしてくれる。