一緒に学ぶこと

早めに家をでて、用件を済ませ、unaでPC作業など。やっとキーボードを打てるようになった。高校生のころ企画展に作品を出品され、今年から芸大生になっていたKさんが来店。大人びていて、一瞬わからなかった。ときどき利用してくれている模様。

急いで新宿。茂木健一郎講座。今回のテーマは「文学と脳」。これも興味深い。
初回はなんと言っても小林秀雄でしょう。案の定、資料は小林秀雄の「無常といふ事」新装版 考えるヒント (文春文庫)。『文学界』昭和17年6月、戦時中の文章ということである。映像はこれもお決まり(?)の小津作品の「麦秋」。

小林秀雄には偶有性としての個別的体験から普遍性へといき着く道筋がある。それが小林美学であり、批評家としては稀有な表現手法だと茂木さんは言う。書き手を消して誰でも入れ替え可能な評論であることが科学ではないだろうと、私も思う。そういう文章はおもしろくはない。言葉の使いが、書き手のこころを動かしたものでなければ、読み手のこころまで届いてこない。そんな気がしている。

そういう気持ちで改めて小林秀雄を読んでみると、ググッとリアリティが迫ってくる。小林秀雄が「一言芳談抄」を読んだときに、「文の節々が古びた絵巻ものの細勁な描線を辿るように心に沁みわたった」という。しかし、いま思い出すのは「ただ、ある充ち足りた時間があったことを思い出すだけ」と表現されたその小林氏の心情を、私の心情をもっても想像できる気がするからだ。

小林氏の文章は高校のテストなどで最初に目にしたもので、小難しいと敬遠してきたのだが、小文を前に、講師の問いかけや講師と生徒のやりとりから、言葉がだんだん近づいてくる。少しは文章のつかみどころができた感じがする。学ぶ仲間というのは、こういうことなのかと思った。学びは元来一人のものだが、一人では学びきれない。

さて、無常ということに関して。生きている人間というのは生き物であり、常に変化をし、予測不可能な存在である。反面死者というものは、変化のない常の存在であり、輪郭がはっきりしている。だから生きている人間というのは、輪郭のはっきりした死者になりつつある生き物なのであろう。と小林氏は言っている。

つまり人間とは「生きているうちは人間とはなり得ず、常なる人間として不動の存在となる死に向かう生き物」と言えるのか・・・。となれば、歴史や過去の記憶という「常」を傍らに置くことで、無常を生きることができるではないのか・・・などなど、考えが頭を渦巻いていた。

脳科学の資料も興味深いものだった。それはまた。