宗教は生きるテクニックの一つ

新潮社の『考える人』に二回に渡って掲載された脳科学茂木健一郎×禅僧南直哉氏「問い」から始まる仏教―「私」を探る自己との対話の対談はとても興味深く、また共感していた。特に未知である南氏に、いたく興味を抱いたのだが、その組み合わせで対談があり、リアルな南氏にお会いすることができてしまった。いままで全く存在を知らなかった人物が、半年も経たずに、目の前にいる不思議。これをご縁と言うのか…。

写真や文章を拝見し、想像していた人物像は、カミソリの刃のように、触ったら切れそうな怖い方かと思っていたのだが、お話されるや、「あららっ」と緊張がほぐれた。小林秀雄のしゃべりも江戸弁で、落語家のようだったと聞くが、南禅師も、「元落研かしら?」と思わせるほど流暢なしゃべり。しかし、内容は深く、本質的で、格別なものだった。答えを持っている坊さんの説教のようではなく、彼の思索・苦悩が感じられる言葉の展開だったからである。茂木氏も、場を重ねているので、質問も最初から核心に迫るものだった。

いちいち挙げるのは困難なくらいの密度の濃さ。その中で私が解釈したこと。
南氏は何度も「『○○は○○だ』と思う私」、であることを自覚せよと言われていた。つまり南氏の言われることも、彼が解釈し、取り入れた見解であるということ。それを、問わず、むやみに鵜呑みにするなということであろう。その認識を持って、彼の話を伺うことにする。

「仏教は諦めること」。その「諦め」とは、自分を明らかに、つまびらかにし、そして諦めるということだという。それが自我を切り開いていくということなのだそうだ。そしてこうも言われる。自意識(自我?)というものはもろいものであり、身体のありようによって、一変するものだと。つまりは「自分」なんて当てにならない、だから執着するなということだろうか。身体のありようとは、行いのありようでもあるわけだが、それが「その人」を決めていく。逆に言えば、行為がその人を成立させている。独自な自己なんてないとも言えるのか?

また仏教特有の“業(カルマ)”の問題に触れる。これは近代科学主義にはマッピングできないとしながらも、彼はそれを「行為」と同義に解釈していると言われた。行為は人の関係で起こるものであり、ということは縁起ということか? 私にはまだ理解出来ない領域だ。しかし、彼はブッダ道元の教えを学ぶが、それをまず自分に返している。自分の言葉で置き換えている。自分をつまびらかにするために、必要な解釈を探っている過程にいるようでもある。(そこに私はシンパシーと共感を持った)

また仏教やキリスト教は人間をどこかで肯定していないと言われる。詳しくないので、「そうなのかなぁ」と思って聞いていたが、そこからの展開は魅力的だった。人間の生には根拠がない。生物に対しても、宇宙に対しても説明のつく根拠は見つかっていない。その、生存に対する根拠のなさは、切なさであり、苦しみとなる。その想いが、強く承認を求め、慕情の想いとなるという。そのどうしようもなさに、思いをかけるのが慈悲。という方向のベクトル。

だが、仏教はその不安の逃げ道としての「神」を作らなかった。「神が作った」、「神が言った」という“一発解答”を持たないのだ。ブッダは根拠のなさをそのまま引き受け、問うことを続けた。仏教は厳しく苦しいものだと南禅師が言う所以である。そこで、宗教とは「生きるテクニック」だとも言われるのた。だとすれば、どんなテクニックであれ、苦しさを伴うものであれ、自分はこれで行こうと思えばいいことになる。宗教とはまさに「信じる」ことなのだった。

自分が採用すべく理論・方法に出会ったなら、それにチップを置く。「私の選択」に賭けるのである。それで生ききれるのか、どん詰まりになるのか、結果はだれもわからない。このアプローチは、むしろ科学的なものだと思う。どの手法をとるのか、あくまで自分で掛け金を置く。それがミソである。
まずは、こんなところで…。