「〜する」と「〜しない」

論語』第5。<子貢曰はく、「我、人の諸を我に加ふるを欲せざるや、吾も亦諸を人に加ふることを無きを欲す。」子曰はく、「賜や、爾の及ぶ所に非ず」>

弟子の子貢が「自分が他人からされたくないことは人にしないようにしたいと思います」と言うと、孔子先生は「でもね、君にはちょっと難しいことなんじゃない?」と言ったというもの。有名な言葉である。C講師はそこで同じようなことわざがあると、キリスト教の「何事でも、人からしてほしいと頼むことは、人々にもそのとおりにせよ」という立法予言者の言葉を紹介した。これもよく聞く言葉である。確かに言い回しは似ている。が、まったく発想は逆なのである。改めてそのことに気づき、「な〜る」と膝を打つ。
いまの世界のイザコザはそこからきているのではないかと…。

論語では「しない」ことを言っている。「する」ことの迷惑である。
一方キリスト教では「する」ことを言っている。人のために「する」ことの親切である。
されるのが嫌な人に、するのが好きな人。そのズレは共有できていない。もしかしたら某Bシュは単純に「いいことしている」と思っているのかもしれない。それがいかにおせっかいなのかということは、理解出来ないかもしれない・・・そうならばよけい厄介だ。

東洋思想を学ぶ子貢でさえ、「そう言うけど、君には難しいことなんじゃない?」と孔子に言われてしまうのだから。「〜をする」ではなく「〜をしない」ということがいかに難しいか。意識にありながら、相手を尊重、信頼し、節介をしない。親としてこころすべきことと思いつつ、実生活はままならぬ。