仁と義

冷たい雨の一日。「論語論語 (講談社学術文庫)を読む会。
【子曰く、朝に道を聞かば夕に死すとも可なり】という有名な言葉から入る。案内役Cさんは「朝に道を聞いたら、夕には死んでもかまわない」という解釈をされなかった。まず「聞く」ことについて。耳で聞く、心で聞く、気で聞くがあり、耳は物理的な聞き方、気で聞くとは、こころで聞くことよりも、自我を超えたものだと言う。そこで壮子の「唯道集虚」を引用。道はただ虚に集る。ここで言う「虚」とは自分を死なせた状態。つまり気で聞く状態でいれば、道は集ってくる。ただ虚で待つということらしい。

で、その道とはという問題に。孟子は「仁は心なり、義は人の道なり」と言っている。仁とは心の状態を言い、義が人の道ということ。そこで先ほどの道は、自我を超えたところのことになるから、つまり義もそういうことになるわけである。義の文字は羊に我(ノコギリのような刃の象形)。いけにえを奉げる図なのだそうだ。つまり厳かなもの。仁とは慈しみとか美しきものだそうで、キリスト教でいう愛に当たるのだそうだ。慈悲のこころというわけか。
となると任侠ものでよく使われる「仁義」という言葉、ちょっとニュアンスが違っている。もともとの意味とはずいぶんとズレがある感じ。

そんなこんなな話を聞き、究極は義は「真空妙有」ということばであった。Cさんは「あることでもないし、ないことでもない。『じゃあ、なんだよ』ということですよね。その“じゃあなんだよ”と、そういう状態を生きることなんです」と言われたのだ。わかったようなわからないような、でも一番「そうだよなぁ」と思える言葉でもあったのでした。