空爆と空襲

60年前の3月10日東京大空襲があった。あの日を忘れない―描かれた東京大空襲広島長崎程の被害があったそうだ。だが、私は実際のほとんどを知らない。東京を離れて暮らす友人がその地元で大空襲を体験したという老人に出会ったそうだ。関係をつけながら、丁寧に体験を聞こうとしている。だが、ある日地元の老人と一緒の時にその話題が出た。老人は「○○さんはお金持ちだから東京の学校に行けた。私たちは貧乏だったから、学校に行くに行けなかった」というようなことを言ったそうだ。友人はなかなか話せない事情を察した。自分が<よそ者>だから、話せたのではないかとも感じたそうだ。

長崎や広島のこと、戦地でのこと。辛くて話したくない理由ばかりではなく、人にはそれぞれの事情を抱えているのだと想像した。義父も話さずに逝った。今月6日、広島を語り継ごうとした詩人栗原貞子さんも92歳で亡くなったそうだ。ISBN:4380922340遠いものになる。言葉にしていくことは大事なことだ。知らなければ思いを馳せることもできない。

そんな折り、友人の言葉にドキリとした。「空爆」と「空襲」の違いについて書いた短文。空爆とは攻撃する側。空襲とはされる側。視点が反転している。そんなことはわかっている。しかし、本当に「わかっている」のか、と自問。メディアは「イラク空爆した」とは書くが「イラクが空襲にあった」とは書かない。なぜだろう。そんなこと思ってもみなかった。悲惨な事実を知る以前の問題。「空爆される」を「空襲にあう」としたら・・・なにかが変わってくるかもしれない。

そんな私だから東京大空襲といっても、「惨事」という言葉から広がらない。知らなければ、想像が及ばない。60年というはるか彼方の歳月。体験者が存在している「現在」であるはずなのに。