四十にして惑っていても

いつもそうだ。三月になってから気づく。「え、もう三月なの!?」ってぐあいに。そりゃそうだ。28日しかないもん。1月に比べて、3日も短いのだ。

毎月Cさんを囲んで古典を読んでいる。今年から『論語』。道案内役のCさんは外国籍。それに思想哲学、宗教を修めている。あらゆる言語に明るい。その彼から解釈を聞くのが、とても楽しみなひととき。「子曰く、ーー」と始まる、なんだか説教臭いものと思っていた論語であるが、彼の話を聞くと、活き活きとした現代のものになる。

今回は「為政第二」。なじみのある「温故知新」や「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず・・・」が登場する篇である。15歳では己の志を高揚させ、40歳ではだいたい自分の位置がわかり、フラフラしなくなる。やがて50歳で、天命を知るとなるわけだが、その天命とは、使命というより、むしろ「宇宙とのかかわりの中で、置かれている自分というものを知る」と解釈するのだそうだ。そして60歳になれば異質異論にもこころを傾けられ、寛容になるという。慈悲のこころが芽生えるというわけか。さらに70歳では命が円熟し、こころのままに振舞えども、矩をはずすことはない。この解釈納得である。すばらしい。そうだろうなぁと思える。自分が思い込んでいたような道徳的な窮屈さはなく、むしろ悩める人には福音となるのでは・・。

[子曰はく、君子は周して比せず。小人は比して周せず]もよかった。
周とは周知とか、周到などと使われるように、広く行きとどくという意味。しかし、Cさんの解釈はこれまた新鮮。
君子とは<楽>を生きる人という。(人格者というよう言葉の理解では世界が違ってくる)楽の中に苦が含まれる。つまり周とはboth ,and 。一方小人は比して周せず。「楽と苦」と分けて比べてしまうのですね。二項対立的見方。other ,or 。比較の世界ではなく、周の世界で生きるならば「楽」になる。楽とはつまり精神が開放されている状態。「君子」とはそういう人を言うのだそうです。言ってることはあたりまえのことのようですが、スゴくないですか?