デザイントークのつづき

デザイナー原研哉氏の話は、いい話だった。なぜかというと、それが専門分野の話に留まらず、どんな人にでも着地できるところがあったからではないかと思う。話を聞いたり、本を読んでも、全くからだに入ってこないものがある。言葉が素通りしてしまう。意見に同意できるできない、ではなく、情報そのものが、からだに入り込まないのだ。ありていに言えば、「その世界がイメージできない」ということだろう。イメージがつながっていかないというか…。

その点、彼の言わんとすることは非常にわかりやすかった。デサインとは脳を喜ばせることだと言い、「喜ばせること」とは茂木健一郎氏の言われる「クアリア」に触れていることではないかとーー。そうかも… 
そしてデザインを通してコミュニケーションをしているという彼のコンセプトのひとつ「無」とか「空(うつ)」について。その例えとして、神社の賽銭箱の話をした。賽銭箱を置いておくだけで、そこに賽銭を入れ、それぞれが勝手に願い事やお礼などを唱える。そこに神と人とのコミュニケーションが成立している。神社側は賽銭箱というエンプティなものを置いておくだけ。そういうエンプティなもののところにこそ、コミュニケーションが生まれると言う。これは松岡正剛氏の言う、フラジャイルとか編集思想に重なる。知の編集工学 (朝日文庫)余白とか欠損とか、わからなさに向かってベクトルは動く。

そして「わからなさ」という観点として「理解されたとたんに、消費されてしまう」と言われたことだ。だから、絶対消費し尽くせないものを創る。そして、絶対消費し尽くせないものとしての「他者」の存在。その辺をもっと追求してみたい気がした。

そこからなんと「カオス論」にまで発展していく。整然としたもの、整理しきれているものからは、思いもがけないものは生れてこない。創造行為は(脳の活性)、未整理なもの、混沌としているものの中にこそ、潜む。このような話はデザイン論と限定するものではない。

で、ここで急に私的な下世話な話になるのだが・・・。
彼は脳内と机の中は似ていると言われ、「だから机が整理されていなくても、悲観には及ばない」と持論を述べられた。これが「整理できない人」である私としては、ありがたき福音となったのでありました。と、ここでひとまず〆。

ま、途中ということで・・・