『徒然草』を読む会

めずらしく漢文の解釈が入る。古文漢文全く無知な私である。だから今ごろ古典に接しているわけだが、漢文にもまた興味が湧いてきた。中国文化は仏教・儒教に交差するように老荘思想が絡む。老壮思想は仏教のような宗教ではない。かかわり方とか暮らし方か。中国はそうして出来上がってきた国。そういう点でも興味深い。(なぜ学生の時に古典に興味を抱かなかったのか、抱けなかったのか…悔やまれる)
本日の参考俳句。

松茸や 知らぬ木の葉の へばりつく

松茸に木の葉がへばりついて見えなくなってしまった。木の葉は言の葉。言葉にとらわれてしまうと、自身である松茸を見失う。木の葉は松茸とは別のもの。へばりついているだけなのに…。ちょうどメンバーのKさんが医者に言われた一言で、眠れないくらい不安に落ちいっていて、その話をはじまる前にしていたので、全員が俳句の言葉に納得。そして松茸を「待つだけ」とした人生観の話に進展。

落ち葉して 木々りんりんと 新しや

神戸・続神戸・俳愚伝 (講談社文芸文庫)落ち葉を落とすということは、すでに来春の新しい芽を宿していることなのだ。落ち葉は終りではなく始まり。寂しいことではなく、新生の証し。と、まことに前向きな話で会を終えたのだった。