中空に漂う言葉たち

阪大教授の哲学者鷲田清一氏の新聞記事「疲れても聴かねばならない」からすこし長いけれど、引用しようと思う。

聴くというのは、だれかが別のだれかの言葉に耳を傾けるということである。語る者と聴く者、その双方がそろっていないと、聴くということは成り立たない。

昨今はこの当たり前のことをあまり経験しないと言い、言葉にあふれるメディアは宛先不定、放たれっぱなしの言葉だと言う。こんな言葉が続く。

こういう言葉にわたしたちは傷つかない。言葉に傷つくのは、それらが自分に向けられていると感じたときである。だれかの言葉が自分に向けられたとき、はじめて傷つくということが起こる。傷つくのが怖いときにはお互いに向きあっているときにも言葉を中空に漂わせておく。一昔なら『なんちゃって』、いまどきなら『私的には』とか『なーんて言ってみたりして』というふうに。こういう語りのなかで人は傷つくのではなく、言葉が止んだあと、ひとりになって、寂しくてこころがちりちり疼く。そして、だれかとほんとうに話してみたい、だれかの声にふれたい、とおもう。が、だれかの声にふれるというのは、至難のことである。だれかのほんとうに聴いてもらいたくなるのは、ふさいでいるとき、でも自分でも何を訴えたいのかよくわからないときである。

私のやっているスペースにも若者が多く来るが、まさにこの状況を体感している。言ってもわかってもらえない、でも言いたいことがたくさんある気がしている。そういうモヤモヤを内に抱えながら、言葉を交わすなかで、どこか傷ついている。そういう感じ。よく言葉に現されていると感心する。


そして鷲田さんは、「語る/聴くの関係のなかでは『ふれあい』よりも、ずれや齟齬、すれちがいの方が顕在化してしまう。が、このぎすぎすした関係をなんども経験することこそがたいせつなのだとおもう」と言う。伝わらない、耳を傾けてくれない、どう伝えよう・・・そういう現実に対しての「試行錯誤のくりかえしの果てにしか、語る/聴くの関係は生まれない。語りは信頼を前提とするが、信頼は言葉の積み重ねのなかでしか生まれてこないからだ」。

そして人々は“この言葉のやりとりの時間”を惜しむようになっていると鷲田さんは最後に嘆くのだ。

私もその機会を作りたいと痛感したばかり。鷲田さんの引用で終始するが、“この言葉のやりとりの時間”を何らかの形で提供していきたい、そう思った。