丁寧な時間の実践

さて、書いたことは、「べてるの家」のビデオを観たことからだった。べてるは北海道にある、精神障害者が真の自立を目指しているコミュニティの総称。今回はホヤホヤ最新作と10年前のものを観た。今や人気沸騰で、入所できないくらい。それに彼らが作った会社の売上は一億をとおに越え、ビジネス界からも注目を浴びている。が、それは10年前、実際はさらに遡ること10年。つまり20年前からの一歩が続いてきたことなのだ。当時は「何メチャクチャやってるの?」という視線だったろう。何しろアルコール依存、パニック障害、統合失調、男、女と、一緒に共同生活をしはじめたのだから。常識では考えられないものだったらしい。しかも会社を作って儲けようというのだから…


最新の映像の中心はまだ回復途中のAさんだった。メンバー(当事者)の前で、聞かれたり答えたりしている。いくつかの幻聴さん(彼らは幻聴を人格化して捉えることをしている)に埋もれ、自分自身が見えなくなっている状態の自覚から、現実にいる仲間の存在を自覚し、幻聴より、彼らとの間で生きていきたいと願うようになる。微妙でナーバスな状態の彼女とのちぐはぐなコミュニケーションが延々と続く。それが、目の前の仲間とのかかわりを望む言葉を引き出すまでになるのだ。当時者の彼らが饒舌に「自分を語る」になるまでの途中が見えた気がした。

ふと先日の千葉精神科医療センターの講演会を思い出した。設立者の計見一雄氏は過去におおい尽くされた自分から「今(現実)」を取り戻す試みの話をされた。彼も全国初の精神科の救急センターを作って長い。きっと同じ状況だったろう。


彼らの実践が次第に周りの認識を変え、受け入れられる現在に至っている。しかし、一つひとつの実践はモデルのない試行錯誤の連続だったことだろう。失敗も含め、その一つひとつの実践の積み重ねで、今があるのだ。その長い時間の苦労に想いがいく。